3年ぶり
最近のこと。そして忘れちゃいけない大事なこと。
大分安定してきたと感じる。今、私は学生だけれども、普通の状態というか、気分のムラ、揺れ幅は以前よりも大きくなく、嵐のように猛っていた海が、今は穏やかに凪いでいるような心情世界だ。そして私はそれを砂浜にしゃがんで頬杖つきながらそれを見ているような。渦中からはとりあえず、脱したのかもしれない。まだ油断はできないけれど。
前回に書いた記事の、とても優しい気持ちになれた。というものは、辛い友達を励ますつもりでファミレスに集まり話してる途中、それまでは私の最近のこととか昔のこととかを、暗くなりすぎないように話した。(1番のメインは、辛い思いをした友達の近況を聞いて、とても辛い現状にあるのを手を取りながら涙ながらにお話をしたというものだった)
自分で話す分には感情が抑えられてるのかしゃくりながら話すとか、どもったりとか、涙ながらに。なんてこともなく、状況説明という点においてはまるでプレゼンテーションのように説明することができただろう。
だが、大分話も進み、世間話や趣味の話の途中で、閑話休題のように何度も何度も抱きしめてくれた。「○○(私)さん、抱っこしたげる」って。何度も何度も。
そして、そんなのも挟みつつ、また何度目かの抱っこで抱きしめてもらったとき(抱きしめてもらう時にも「やぁだーー!そんなん一生分抱きしめられたらこの先もうなくなるのでわーー???!!」なんておちゃらけつつ、その友達のとなりにすわった)、
「○○さんはいい子だよ。いい子、いい子。よく頑張ったね、大好きだよ」
隣同士だしファミレスの椅子なので、体をひねりながらの抱きしめ合いは、その友達の手は私の左肩の方を抱くように回され、右の手は私の胸のあたりを覆うもうに抱きしめてもらった。私の方は…しがみつくような抱きしめ方だったかもしれない。
その言葉が妙に優しく悲しく、不意にニコニコさっきまでふざけていた顔が無表情になった。(無表情の私は怖いって言われる。笑わなきゃ!)なんて、常日頃から思っていたが、今は耳しか機能してないみたいに、硬直して固まってしまった。どうしよう、って思った。
その間にも、友達の顔は私の右肩辺りに押し付けられているから、私の顔は友達からは見えない。でも彼女はずっと声を掛けてくれて、抱きしめて、肩を撫でさすってくれていた。「○○さん、本当にいい子。ずーっと一人で頑張ってきたね。そんな○○さんが大好きだよ。」
暖かくて優しいなぁ。この子には幸せになってほしいなぁなんて考えていた。どうしてそんなことを言ってくれるのかわからなかった。本当にわからなかった。だって私はダメで、何も取り柄もなく自分に自信がない。どうしようどうしようって、いつも考えていた。
抱きしめられている瞬間だって、「離れなければだめだ!」と、強く誰かがそう言ってる。わたしは太っていて汗っかきでワキガで、家族からも散々わたしの体臭のことを言われたし、学校でも「臭うしデブ」と陰口を叩かれた。
「わたしを抱きしめたら臭いから、嫌な思いをするに違いない」いつの間にやらそう思って、相手を強く抱きしめることも、長く抱きしめるのも出来なくなってしまっていたんだ。
何度も何度も繰り返された抱きしめあいっこは、いつもわたしの方から早々に離れていた。どうしたらいいかわからなくなる。求められても、嫌な思いをするのはあなたでしょ?私、体臭キツいもん。だから離れるの。なんて、言い訳がましい行動のようだっただろう。
けれど、友達のこの言葉を聞いていて、顔が無表情になるとそんな考えはもうどこかに行っていた。
言葉を聞いているうち、ボタッ、ボタッと目から涙があふれ、テーブルに落ちた。俯いていたから、頬は伝ず、瞬きもせず、次から次へと大粒の涙がテーブルに落ち始めた。無表情で、見開かれた瞳から、ぼたぼた流れ続けてくる。
友達の言葉はまだ止まない。
何度も何度も、「大好きだよ」「○○さんはいい子、いい子」なんて、ずっと言ってくれていた。
ぼたぼた落ちる涙の、眼球の奥が痛み出し、鼻や眉のあたりにも何かが伝わり始めた。
無表情は泣き顔になってしまって、顔をしかめっ面にして、またボロボロ泣いていた。涙が頬を伝った。もうなりふり構っていられない。この醜い顔が、正面に座る別の友達に見えてしまう…
わたしは、抱きしめてくれていた横の友達から横に移動し肩や触れていた頬が離れるのを感じながら、ゆっくり離れ、そのままテーブルに突っ伏した。
嗚咽を堪えるのは、とても大変だった。
声を上げて泣けない。わたしはいつも、布団の中で誰にも気づかれないようにして泣くしかなかった。
テーブルの上に両腕を組み、その中で泣くしかなかった。「悲しい!」「悲しいさみしい!」なんて、体を縮こませて「もうこれ以上わたしを傷つけないで」と、その時は思った。
腕とテーブルの中に顔を埋めたあたしはただただ泣いて鼻をすすり、声は上げずただ溜め込んだ息を限界まで止め、そしてハァーーッと吐き出すを繰り返した。声帯は震えない。唸り声はいつも上げない。しかし喉奥にはいつもいつも飲み込みきれないようなどっしりした塊がある。それを吐き出したらバレるのだ。そしてそれは泣き声だって同じことなんだ。
その様は、「堪えて、堪え続けたんだなぁ」という気持ちと、「私は、もう声を上げて泣くようなことが出来なくなってしまったんだ」と、自分自身にそっと質問するには十分だった。
抱きしめて、「いい子、いい子」と言ってくれた子は、泣いてテーブルに突っ伏した私の肩を抱いてくれ、
正面の友達は、腕を組み縮こまって悲しみに暮れている私の腕をさすってくれた。
どうして、私はこんな友達のような優しさを持った家族を持てなかったんだろうか。
黙って、私の感情をただ「悲しいんだね」と、言葉にせずとも受け止めてくれる優しい人たちのところに、生まれることができなかったんだろう。
私が泣いていても、「なんで泣くん?○○ちゃん、泣かんといてよ〜〜嫌やわ〜」と、困惑して迷惑そうには母に言われたくはなかった。
「○○、どしたん??泣いとるんか?○○が泣いとったら悲しかったら家が全部暗なるわ。泣かんといてよ〜〜」なんて、私の望まない励ましの言葉は、父から欲しくなかった。
「なんで泣いてんの?」なんて冷たい口調で、迷惑そうに嫌そうに姉に聞かれたくなんかなかった。
どうして、泣いていたら「どうしたの?」「吐き出しちゃいなさい」「泣いてもいいんだよ」と言ってくれなかったんだろう??
側に寄り添って、肩をさすってくれるだけで、私はよかったのに。きっと、それだけで、「あのね、」と話し始めただろう。
責められるように、そんな風に泣いてることに対して何か言われて、話し始める馬鹿が、何処にいるの??
泣いてることを責められるうち、「ああもう人の前で泣けない。泣いてることで責められるのだから」と、人前で泣くことがとてもとても苦手になった。
その日は、多分人前であそこまで取り乱して泣くことが初めての日で、しかも家族以外の人の前で、あんなに泣いたのは生まれて初めてのことだっただろう。
泣き腫らした目をこすりながら「ハァーーッ……ありがとう。ほんと、ありがとう」
と、普段の私の会話をして、「ちょっとトイレ行ってくる」と、席を外し、用を足すためトイレに座った。
さっき泣いたことを思い出したりして、また顔をしかめて泣いた。しかめっ面も、私は顔が汚いからしたくないけれど、個室なのでまだ大丈夫。でも、その時声に出して「生きたい……!!幸せになりたい…!」と、またボロボロ流しながら思ったし、実際小さな押し殺した、鉛を飲んだような喉からそう発声した。「ああ、私は、『幸せ』になって、『生きたい』んだな。」と思えた。
過去の追走は終わり。上記のことは、忘れたくない、大切な宝物のような事なので、記録しておきたかった。この日は、私が鬱症状が出て丁度一週間ほどの月曜日。6/11の日のことだ。記録をつけておく。
あとはもう、なんというかわたしの性格ツラツラ書いて、投稿する。
私はもう、自分の辛かったエピソードや辛かったこと、ネガティブな感情を他者に表現する時「なんでもないですよー!」「そんなに気にしてないんだけどね!」と、「今では笑い話」というように、明るく話す。若しくは、感情を交えず淡々と話したり短く終わらせる。
私の暗い過去や性格を話したら、その人が、普段は明るい私の暗い部分を見て、(私を見る目が変わるんじゃないか)とか、その人自身が、(私のことを考えて心配させてしまうのではないか?)と思って、怖くて、わざと話さなかったり、話してもコミカルに話すしかできなくなってしまった。
実際、私は他者に対してコミュニケーションを取るとき、わざとおちゃらけ、芸人のように一人でボケたりツッコミをしたり忙しない。友達からの評価はとりあえずいつも「明るい」「底抜けに明るい」「たまにうるさい(笑)」なんて評価だ。私は計算してそう見えるようにしているので当然だけれど。
もう板に付いてしまっているし、ひとを楽しませることは今では嫌いではないしむしろ好ましいので、それはもう性格にまで「明るい、面白い」という評価が自分自身に対しても下せるだろう。実際結構人見知りでコミュ障だがやろうと思えば「クラス内のおちゃらけた面白い子!」という演技をすることが出来る。ある程度はだが。時に楽しく、時に辛い。何も考えていない、感じないような鈍感な子に見られてしまうから。事実、そういう扱いを受けることもままある。
今日は疲れた。ここまでにしよう。これだって、三、四日かけて書き上げた。今日はもう、このくらい。
とても優しい気持ちになれた。
今からポエムのような自分の素直な気持ちを書きます。気持ちがこもっていると思います。込めています。
私は今まで、離さないように溜め込んで来た、とても重たくてつらくて痛くて悲しい、氷の塊のような言い表せないほど大きな氷山を抱えていた。
それはあるというだけで辛く、寂しくて嫌で怖くて寒い気持ちにさせるもので、けれども私の世界には、その恐ろしい大きな氷山しかなかった。
だから私は手放すに手放せず、それが無くなると黒くて深くてドロドロした膿のようなものしか残らなくなるので、何とかその氷山を小さくしようと考えないようにしようと、
氷山を苦労して付けたマッチ一本で溶かそうとしたり、たまに蹴ったり齧ってみたりした。私一人の力で。
でも、マッチ一本でどうにかなる大きさじゃない。
蹴ったり齧ったり、私一人でどうにかなるわけじゃない。
この氷山を、あたしは持て余していて、必死にやっているのに、マッチを擦るだけでも凄い労力なのに、氷山は溶けてくれないし、壊れたりもしなかった。
でも、あたしは何というか、その氷山に向き合う時は決死の覚悟だった。
周りの人は、私よりも大きく、そして後ろからワァワァ応援してくれるので、火を付けるのは苦手なのに、必死にマッチを擦った。何度も火を灯しては溶かそうと躍起だった。
応援してくれるのだから、私はこの手段で、この氷山を何とかしなくちゃって思ってた。
でも、今日、氷山に向かって頑張って、頑張り疲れてボロボロになった私を、ギュって抱きしめて、温めて、涙を流してくれる人がいた。
私はびっくりして、いつも後ろの方、それもうんと遠くから声を飛ばされるばかりで、それもいつも聞き取りづらかったはずなのに、近くに来てくれたのがひどくびっくりした。何が何だかわかんなかった。
しかも、遠くで応援してくれている人は、距離が遠いからとても小さい蟻のように氷山の目の前で後ろを振り返った時には見えてたのに、近くに来るととても大きい。
私のそばまで来てくれた人は巨人で、しかも雲を覆うような人だった。
その人からすると、きっとわたしには巨大過ぎた氷山も、お皿の上のステーキぐらいの大きさなのだろうかと思うほど、大きな人だった。
でも、不思議に顔を合わせると同じサイズ。手を合わせて抱きしめても、同じくらい。その人の方が少し大きいくらい。それで気づいた。
今まで氷山の前で頑張ってたわたしは、実は小さいわたしで、それこそ米粒くらいの自意識しかなかった。ひとりで頑張って、巨大な氷山に立ち向かっていたわたしは、私の中の小さな小さな私だった。
氷山は、実質大きな氷の塊でしかなかった。それでも、重く、冷たく、硬いのは変わらなかった。でも、果てが見えないほど巨大ではなかった。見下ろすと、大きなステーキほどでしかなかったんだ。
息遣いや体温を感じるほど密着してピッタリくっついている人は、涙を流しながら氷山に触れてくれ、今まで溶かすことができなかった面積の氷を溶かしてくれた。
そして、それを呆然と眺めていたら、氷に触れたはずなのに次に私に触れてくれた。熱い熱い手だった。でも、熱に掛かったような暑さというだけで、不快ではない。むしろ、私の手が冷た過ぎて、普通の体温のこの人の手がとても暑く感じた。じんわりと暖かくて、木枯らしがピュウと吹く曇り空の冬場から、暖房の効いた素敵な雰囲気の喫茶店に入って一息ついたような安堵だった。
その人は泣いてくれてた。私のために泣いてくれてた。私も泣いた。涙はお互いあつかった。
この、暖かく大きな人は、一人きりで来てくれたのではなくて、私を想って来てくれた大切なひとたちなんだとわかった。
今まで、米粒で頑張っていた私は、遠くのガヤガヤワァワァいうばかりの人を気にして、米粒なりに頑張っていたが、この人たちとは全く別の、このおっきい人は、深くて暗い海から上がって来たのか、遠くの海から来たのか、わからなかったけれど、来てくれた。あたしのために来てくれた。
あたしのために泣いてくれて、あたしとともに頑張って氷山を溶かしてくれた。
口の中のラムネのお菓子みたいに、かなりの量がその熱さで溶けた。怖くてボロボロ泣いた。その人は暖かくて熱い涙を零してくれた。その涙も怖かったけど、ごめんなさいと想ったけれど、嬉しかった。本当に嬉しかった。
米粒ほどでしか自分で溶かせなかったけれど、周りから言われて、米粒ほどでしか頑張れなかったけれど、
私は本当はちゃんと大きくて、氷山は私よりも巨大な氷ではなかった。
ずっと、ひとりで頑張って来たけれど、一緒に溶かしてくれる人が、人たちがいた。私が求めるものをくれた。
なんて幸福なんだろう。どうして、気づかなかったんだろう。マッチで溶かせないことも、米粒だったことも、氷山は大きくなかったことも、その大きく暖かい人がいたことも。
どうしてわかんなかったんだろう。良かった、生きていて良かった。この氷が、たくさん、たくさん解けて良かった。泣いてくれる、後ろから熱を分けてくれて、微笑んでくれる人たちがいて、本当に良かった。
もう大丈夫とは言えないけれど、私は、私を理解してくれる人がちゃんといるって、気づけてよかった。今日は本当に、たくさん話してたくさん泣いた。
私のことが、大好きだって言ってもらえた。
もう、怖くて涙が止まらない、自分を否定し続けたけれど、大好きって、私の不安も吐き出した上で、言ってもらえた。
嬉しい。嬉しい。依存しすぎるのは、だめだけれど、やっぱり嬉しいんだ。怖いけど嬉しい。頑張ったんだあたし。これが欲しかったんだ。ずっと欲しかった。
じんわり、魔法みたいな気分だった。氷も、米粒のあたしも、頑張った私だから、大きな人が来てくれてよかった。この大きな人は、愛情深い友人たちだ。幸せになりたい。みんなで幸せになりたい。
雑記
母は昔から新興宗教をやっていて、幼稚園くらいから問答無用で通わされた。周りには別に公言して言ったりしていなかったが、宗教特有の教え的なものを刷り込まれていたり、元来空気の読めないコミュ障なので、小中高いじめにはもれなくあっていた。
中学生くらいの時から、週に一度は頭が痛くなるくらいまで泣いて、「なんで私はこうなんだろう」と、いじめられたことやいじめたやつや、色々された嫌なことを思い出しては泣いていた。そして最終的には「私が悪い」で落ち着くのだ。頭のおかしい子が、いじめにあったりして周りのせいにし、自分に問題があると考えないのは自分を客観視出来ない、思春期、心の二次性徴が訪れていないからだと今でも思っているが、私の場合は自分自らの勝手な思い込みの客観視というか、冷静に自分を見た後自己嫌悪でさらに自分をいじめていた。
幼稚園、小学校4年くらいまでわがままだったのは覚えてる。わがままエピソードはあまり覚えていないが、「嫌なやつ」と「わがまま」という二語はその頃を思い出すとつきまとうワードだ。実際沢山叱られて怒られて言われた。まぁ確かに幼い頃から色々ストレス環境にあったのか、周りに嫌がらせまがいのことを平気で行なったりしたが、家で同じ行為を見ていたのでなぜ叱られるのかよく分からなかった。
よく叱られたので、性格が暗くなった。過剰なまでに優しくというか臆病になった。小5、6の時、嫌々母に連れられていた宗教にどっぷり自分自身ハマったのもあっただろう。教えが本当に素晴らしいものだと思った。家でも「天使」と呼ばれる光を見たのもあって(幻覚)益々ハマっていた。中学校一年の半ばまで宗教脳だった。「為に生きる」とか、下手くそな字で小学校の作文に「将来の目標」を記入したのを覚えてる。
即効性のお薬の効き目と、父のこと
眠くなるよとは聞いていたけれどめちゃんこ寝てしまう。
お医者さんは、「とりあえず一錠。効かなかったら二錠まで飲んでいい。効きすぎたら半錠。このお薬でいいのかを見たいから、まずは飲んで試してみて。」
と、言われた。昨日もらったので、夜の不安な時に一錠飲んだ。6時くらい?
お父さんから、「クリーニングに預けたズボンを取りに行ってくれ」「あとワイシャツも二枚アイロンしてくれ」と言われていた。正直、わたしはもうお父さんの世話をしたくない。お姉ちゃんがやればいいのに。無理なら、自分でしてくれ。と常々思っていたので寝た。薬すごい効いたのか、12時まで寝てしまっていた。アイロンせずに済んだ!ラッキー
うちの父は、半別居状態で、週一か週二で帰ってきて、大量の洗濯物をその辺に置いて(洗濯物カゴには入れない)そして、これから一週間着るワイシャツを要求する。お母さんが疲れてる時は私がやる。これがイライラするのだ。リビングにいてビール飲みながらテレビを見ているから。やって貰ってる態度とは思えねぇ。
なので一回、「イライラするからアイロン終わるまではどっかいってくんない?」と言ったら、ぶつくさ文句を垂れてた。そんで私が、「なんでアイロン自分でやんないわけ?」と言ったら、「それ(アイロンかけ)って、お父ちゃんやる仕事やないから、でけへんも〜ん」なんて茶化しやがった。やってるお母さんや私は家政婦か何かなのか?一人暮らしなんて出来ねーだろお前。
今まで散々おもちゃにされて貶されたこの人の老後の面倒をどうして私は「見る」なんて言ってたのだろう。体良く押し付けられてる、なんて思わなかったのかな。
新しいお薬貰った あと粉ミルクのこと
https://tomoyukiikiru.hatenadiary.com/entry/2018/06/01/222356
前回の時貰ったお薬。効かない効かない言ったら違うの今日貰えた即効性。やたーー
この間から色んなことが思い出される。忘れてたことが多い。家族と話していると、やっぱり覚えている私の方が、細かくて、いつまでも過去のことを掘り返して、うじうじとしているのではないかと思ってしまう。あんまりにも家族は普通だ。昔のことだから、
でも、やっぱり嫌なこととして覚えているので、私が嫌なものは嫌でいいのだ。
この頃、赤ちゃんが哺乳瓶で粉ミルクを飲むのが美味しそうで美味しそうで、ずっと粉ミルクの味を検索していた。
割と高い!世のお母さんはすごい。明治のほほえみが、よくみるパッケージだし理想的な味っぽかったので欲しかったが、美味しくないとかこなっぽいとかあった。使い切りのパックになってるからそれもいいかと思ったけど、やっぱり高い。合わなかったら捨てるしかないし。
そこまで考えて、粉ミルクの味を知らないけど、「こんな甘さでおいしさだったらいいなぁ」というものがあったのを思い出して、そっちを買うことにした。クリープ。飲みたくて飲みたくて堪らなくなったので、スーパーの閉まるまで30分の10時半に、チャリ焦がしてクリープと牛乳買った
クリープをちょいと粉のまま舐めてみて、甘くってほんわり優しい味だった。これだよこれ。理想的だ。
お湯で割って飲んでみて美味しい。更に牛乳で飲んでみても美味しい!甘い!美味しい!優しくて愛情あふれるあじだ
涙出てきた
ともかく美味しいし、ご飯もあんまり食べたくなく、二週間ほど一食に留めているが、これを飲んで過ごしたい。クリープだから栄養ないの残念。しかも下痢する。うわぁん。仕方ない
学校に持っていけたらいいなぁ。牛乳だから無理かなぁ
「抑うつ状態にあるよ」と言われた
カウンセリングさんに言われた言葉。ちょっと調子がおかしい気がする。でも、まだふつうの状態に戻れる気がしているので、まだ大丈夫という気がする。
昨日、カウンセリング、心療内科にかかって、とりあえずお薬と通院を約束。お金なかったので、今日受け取りに行く。
母についての家族のラインになんだかイラつく。言ってることが難しい。馬鹿にしてるのか。それともあっちがおかしいのか。
家に帰してみて、経過を見るそうだが、こんな状態で母の不安は増すばかりな気がする。ので、私がやらなくちゃならない。
お腹は昨日、何か食べた気がするので、今は全然空いていないが、こないだからケンタッキーが食べたかったので、今日、部活にも行かないし、授業も疲れるので、帰った時食べたくなったら嫌だし、他のものを入れたくもないので、食べる。
昨日から、赤ちゃん関連のネットサーフィンが止まらないというか、頭から離れない。赤ちゃん返りだろうか。
薬を飲んでから色々あった。
十四時頃、お薬を貰いに行って、薬剤師の方二人女性で、優しく声掛けてくれたので嬉しかったあ。
お薬手帳も、持ってるかよく分からなかったので一番可愛い蜂さんのにした。多分ちっちゃい子もこういうの使う気がする。
薬貰ってちょと嬉しくなったので、ケンタッキー食べた。美味しかったのと、そのまま薬を飲んで見た。14時8分。どのくらいで効くのか知りたかった。
帰路について駅から歩いているときに40分程度経過していたけどあんまりよくわかんなかった。でも、胸の辺りのモヤモヤというかヒュウっとした嫌な感じは少なかった気がする。心臓は相変わらずドキドキしてた。
「眠たくなるから夕食後に一錠ね」と聞いていたので、ひいたままのお布団に包まっていたが、そこまで睡魔には襲われなかった。あんまし効かないのかなと思った。
そこからまた、二時間くらい経って、何だか元気になった気がした。犬とも遊べた。笑顔でニコニコ素早く動けた。でもすごく疲れる。すぐ息切れというか体が重い。これは、薬の副作用なのか、それとも今の私の状態が鬱っぽいからなのか。どちらにせよ兆候、という感じ。
体が重くて、頭、首、胴体にめちゃくちゃ重力かかってる感じがする七時くらいまでずっと続いてた。切り取った部位の重さによって変わる感じ。座った状態とか自転車に乗った状態の腕足は体ほど重くなかった。でも大分疲れた。
友達からおしえてもらった自立支援医療制度を見てみて、マイナンバーカードも見つけたが、世帯所得によって制度受けられるか変わるらしい。嫌だなぁ、これだとお父さんにまた経済状況聞かなきゃなんない。また嫌味言われるのかなぁ、小学生の頃、「人に迷惑が掛かるんだ」って、病院行くのを責められたから、言うのやだなぁ。お金掛かるのやだ
畜生。またお姉ちゃんが連絡もなしに。なんなんだあいつ。死んでやろうか。話そうと思ったのに。なんなんだよ。死んでやろうか。後悔するのか。ラインは嫌なんだよ。第1このタイミングだと帰らざるを得なくなる。飲み会。でも帰ったら帰ったで私は普通だからガッカリされる。そんなの嫌だ。もっと自分が嫌いになる。責められるかもしれない。それですぐ帰ってこなかったら気が狂う。どうせあたしなんか要らないし疎ましいって思ってるって再確認する。嫌だ。畜生。畜生畜生畜生