最近のこと。そして忘れちゃいけない大事なこと。

大分安定してきたと感じる。今、私は学生だけれども、普通の状態というか、気分のムラ、揺れ幅は以前よりも大きくなく、嵐のように猛っていた海が、今は穏やかに凪いでいるような心情世界だ。そして私はそれを砂浜にしゃがんで頬杖つきながらそれを見ているような。渦中からはとりあえず、脱したのかもしれない。まだ油断はできないけれど。

 

前回に書いた記事の、とても優しい気持ちになれた。というものは、辛い友達を励ますつもりでファミレスに集まり話してる途中、それまでは私の最近のこととか昔のこととかを、暗くなりすぎないように話した。(1番のメインは、辛い思いをした友達の近況を聞いて、とても辛い現状にあるのを手を取りながら涙ながらにお話をしたというものだった)

 

自分で話す分には感情が抑えられてるのかしゃくりながら話すとか、どもったりとか、涙ながらに。なんてこともなく、状況説明という点においてはまるでプレゼンテーションのように説明することができただろう。

 

だが、大分話も進み、世間話や趣味の話の途中で、閑話休題のように何度も何度も抱きしめてくれた。「○○(私)さん、抱っこしたげる」って。何度も何度も。

 

そして、そんなのも挟みつつ、また何度目かの抱っこで抱きしめてもらったとき(抱きしめてもらう時にも「やぁだーー!そんなん一生分抱きしめられたらこの先もうなくなるのでわーー???!!」なんておちゃらけつつ、その友達のとなりにすわった)、

 

「○○さんはいい子だよ。いい子、いい子。よく頑張ったね、大好きだよ」

 

隣同士だしファミレスの椅子なので、体をひねりながらの抱きしめ合いは、その友達の手は私の左肩の方を抱くように回され、右の手は私の胸のあたりを覆うもうに抱きしめてもらった。私の方は…しがみつくような抱きしめ方だったかもしれない。

 

その言葉が妙に優しく悲しく、不意にニコニコさっきまでふざけていた顔が無表情になった。(無表情の私は怖いって言われる。笑わなきゃ!)なんて、常日頃から思っていたが、今は耳しか機能してないみたいに、硬直して固まってしまった。どうしよう、って思った。

 

その間にも、友達の顔は私の右肩辺りに押し付けられているから、私の顔は友達からは見えない。でも彼女はずっと声を掛けてくれて、抱きしめて、肩を撫でさすってくれていた。「○○さん、本当にいい子。ずーっと一人で頑張ってきたね。そんな○○さんが大好きだよ。」

 

暖かくて優しいなぁ。この子には幸せになってほしいなぁなんて考えていた。どうしてそんなことを言ってくれるのかわからなかった。本当にわからなかった。だって私はダメで、何も取り柄もなく自分に自信がない。どうしようどうしようって、いつも考えていた。

 

抱きしめられている瞬間だって、「離れなければだめだ!」と、強く誰かがそう言ってる。わたしは太っていて汗っかきでワキガで、家族からも散々わたしの体臭のことを言われたし、学校でも「臭うしデブ」と陰口を叩かれた。

 

「わたしを抱きしめたら臭いから、嫌な思いをするに違いない」いつの間にやらそう思って、相手を強く抱きしめることも、長く抱きしめるのも出来なくなってしまっていたんだ。

 

何度も何度も繰り返された抱きしめあいっこは、いつもわたしの方から早々に離れていた。どうしたらいいかわからなくなる。求められても、嫌な思いをするのはあなたでしょ?私、体臭キツいもん。だから離れるの。なんて、言い訳がましい行動のようだっただろう。

 

けれど、友達のこの言葉を聞いていて、顔が無表情になるとそんな考えはもうどこかに行っていた。

 

言葉を聞いているうち、ボタッ、ボタッと目から涙があふれ、テーブルに落ちた。俯いていたから、頬は伝ず、瞬きもせず、次から次へと大粒の涙がテーブルに落ち始めた。無表情で、見開かれた瞳から、ぼたぼた流れ続けてくる。

 

友達の言葉はまだ止まない。

 

何度も何度も、「大好きだよ」「○○さんはいい子、いい子」なんて、ずっと言ってくれていた。

 

ぼたぼた落ちる涙の、眼球の奥が痛み出し、鼻や眉のあたりにも何かが伝わり始めた。

 

無表情は泣き顔になってしまって、顔をしかめっ面にして、またボロボロ泣いていた。涙が頬を伝った。もうなりふり構っていられない。この醜い顔が、正面に座る別の友達に見えてしまう…

 

わたしは、抱きしめてくれていた横の友達から横に移動し肩や触れていた頬が離れるのを感じながら、ゆっくり離れ、そのままテーブルに突っ伏した。

 

嗚咽を堪えるのは、とても大変だった。

 

声を上げて泣けない。わたしはいつも、布団の中で誰にも気づかれないようにして泣くしかなかった。

 

テーブルの上に両腕を組み、その中で泣くしかなかった。「悲しい!」「悲しいさみしい!」なんて、体を縮こませて「もうこれ以上わたしを傷つけないで」と、その時は思った。

 

腕とテーブルの中に顔を埋めたあたしはただただ泣いて鼻をすすり、声は上げずただ溜め込んだ息を限界まで止め、そしてハァーーッと吐き出すを繰り返した。声帯は震えない。唸り声はいつも上げない。しかし喉奥にはいつもいつも飲み込みきれないようなどっしりした塊がある。それを吐き出したらバレるのだ。そしてそれは泣き声だって同じことなんだ。

 

その様は、「堪えて、堪え続けたんだなぁ」という気持ちと、「私は、もう声を上げて泣くようなことが出来なくなってしまったんだ」と、自分自身にそっと質問するには十分だった。

 

抱きしめて、「いい子、いい子」と言ってくれた子は、泣いてテーブルに突っ伏した私の肩を抱いてくれ、

 

正面の友達は、腕を組み縮こまって悲しみに暮れている私の腕をさすってくれた。

 

どうして、私はこんな友達のような優しさを持った家族を持てなかったんだろうか。

 

黙って、私の感情をただ「悲しいんだね」と、言葉にせずとも受け止めてくれる優しい人たちのところに、生まれることができなかったんだろう。

 

私が泣いていても、「なんで泣くん?○○ちゃん、泣かんといてよ〜〜嫌やわ〜」と、困惑して迷惑そうには母に言われたくはなかった。

 

「○○、どしたん??泣いとるんか?○○が泣いとったら悲しかったら家が全部暗なるわ。泣かんといてよ〜〜」なんて、私の望まない励ましの言葉は、父から欲しくなかった。

 

「なんで泣いてんの?」なんて冷たい口調で、迷惑そうに嫌そうに姉に聞かれたくなんかなかった。

 

どうして、泣いていたら「どうしたの?」「吐き出しちゃいなさい」「泣いてもいいんだよ」と言ってくれなかったんだろう??

 

側に寄り添って、肩をさすってくれるだけで、私はよかったのに。きっと、それだけで、「あのね、」と話し始めただろう。

 

責められるように、そんな風に泣いてることに対して何か言われて、話し始める馬鹿が、何処にいるの??

 

泣いてることを責められるうち、「ああもう人の前で泣けない。泣いてることで責められるのだから」と、人前で泣くことがとてもとても苦手になった。

 

その日は、多分人前であそこまで取り乱して泣くことが初めての日で、しかも家族以外の人の前で、あんなに泣いたのは生まれて初めてのことだっただろう。

 

泣き腫らした目をこすりながら「ハァーーッ……ありがとう。ほんと、ありがとう」

 

と、普段の私の会話をして、「ちょっとトイレ行ってくる」と、席を外し、用を足すためトイレに座った。

 

さっき泣いたことを思い出したりして、また顔をしかめて泣いた。しかめっ面も、私は顔が汚いからしたくないけれど、個室なのでまだ大丈夫。でも、その時声に出して「生きたい……!!幸せになりたい…!」と、またボロボロ流しながら思ったし、実際小さな押し殺した、鉛を飲んだような喉からそう発声した。「ああ、私は、『幸せ』になって、『生きたい』んだな。」と思えた。

 

過去の追走は終わり。上記のことは、忘れたくない、大切な宝物のような事なので、記録しておきたかった。この日は、私が鬱症状が出て丁度一週間ほどの月曜日。6/11の日のことだ。記録をつけておく。

 

あとはもう、なんというかわたしの性格ツラツラ書いて、投稿する。

 

私はもう、自分の辛かったエピソードや辛かったこと、ネガティブな感情を他者に表現する時「なんでもないですよー!」「そんなに気にしてないんだけどね!」と、「今では笑い話」というように、明るく話す。若しくは、感情を交えず淡々と話したり短く終わらせる。

 

私の暗い過去や性格を話したら、その人が、普段は明るい私の暗い部分を見て、(私を見る目が変わるんじゃないか)とか、その人自身が、(私のことを考えて心配させてしまうのではないか?)と思って、怖くて、わざと話さなかったり、話してもコミカルに話すしかできなくなってしまった。

 

実際、私は他者に対してコミュニケーションを取るとき、わざとおちゃらけ、芸人のように一人でボケたりツッコミをしたり忙しない。友達からの評価はとりあえずいつも「明るい」「底抜けに明るい」「たまにうるさい(笑)」なんて評価だ。私は計算してそう見えるようにしているので当然だけれど。

 

もう板に付いてしまっているし、ひとを楽しませることは今では嫌いではないしむしろ好ましいので、それはもう性格にまで「明るい、面白い」という評価が自分自身に対しても下せるだろう。実際結構人見知りでコミュ障だがやろうと思えば「クラス内のおちゃらけた面白い子!」という演技をすることが出来る。ある程度はだが。時に楽しく、時に辛い。何も考えていない、感じないような鈍感な子に見られてしまうから。事実、そういう扱いを受けることもままある。

 

今日は疲れた。ここまでにしよう。これだって、三、四日かけて書き上げた。今日はもう、このくらい。